
1. 生前の「相続放棄の約束」
被相続人の生前に、被相続人と相続人間で「被相続人の相続を放棄する」旨の契約(いわゆる「生前放棄契約」)を締結するケースがあります。
中小企業の事業承継や、代々続く農地の相続などにおいて、特定の相続人(後継者)に財産を集中させる目的から、被相続人を交えて約束することが多々見られます。
相続を放棄する相続人は、その代償として、一定の財産の生前贈与を受けたり、財産を承継する相続人から金銭的補償を受けるケースもあります。
しかし、この「生前放棄契約」は、相続が発生した後、約束をした相続人によって「無効」と主張され、深刻な紛争に発展することがあります。
2. 「生前放棄契約」には「相続放棄」としての効力は認められません。
「生前放棄契約」をしたとしても、放棄契約をした相続人に「相続放棄」としての効力(民法939条)は認められません。
つまり、「相続放棄」の効力=「初めから相続人とならなかった」という効力は認められません。
その理由としては、法律上の「相続放棄」は、相続開始後に、相続人が家庭裁判所に申述するという方式が求められており(民法915条、938条)、当事者の約束という簡易な形式で同じ効果を生じさせることは法が予定していないこと、相続の対象財産(遺産)は、相続開始(被相続人の死亡)の時点で初めて決まるものであり、生前の相続の対象財産が未確定の状態で判断できないはずであることが挙げられます。
(相続の放棄の効力)
民法第939条 相続の放棄をした者は、その相続に関しては、初めから相続人とならなかったものとみなす。
(相続の承認又は放棄をすべき期間)
民法第915条第1項 相続人は、自己のために相続の開始があったことを知った時から三箇月以内に、相続について、単純若しくは限定の承認又は放棄をしなければならない。ただし、この期間は、利害関係人又は検察官の請求によって、家庭裁判所において伸長することができる。
(相続の放棄の方式)
民法第938条 相続の放棄をしようとする者は、その旨を家庭裁判所に申述しなければならない。
裁判所の判断
東京家裁昭和52年9月8日審判では、「生前における遺留分放棄許可制度をもうけているが、生前における相続放棄ないし放棄契約については明文の規定を置いていない。このため、生前における相続放棄ないし放棄契約はこれを否定するのが通説及び判例の傾向のように看取される。…当裁判所としてはなお消極に解さざるをえない」と判示し、生前の合意に法律上の相続放棄の効力を認めることを否定的しました。
東京地裁平成17年12月15日判決では、「相続放棄が相続の開始時点における相続人の真意に基づいてなされるべきである(一定期間に家庭裁判所に申述する必要がある。民法915条1項。)のと同様,相続開始前の処分行為は無効だからである。このことは,遺留分の放棄についてのみ,家庭裁判所の許可を要件として有効とする規定(同法1043条1項)の存することからも明らかである。」と生前の遺産分割の効力を否定したうえで、「そうすると,被告補助参加人の主張は(これを被相続人の生前にした原告らの相続放棄の約束と解しても),抗弁には該当しない。」と生前の相続放棄の約束についても相続放棄としての効力を有しないことを判示しています。
※現行法では、民法1043条1項は、民法1049条第1項に改正されていますが、内容は同じです。
(遺留分の放棄)
民法1049条第1項 相続の開始前における遺留分の放棄は、家庭裁判所の許可を受けたときに限り、その効力を生ずる。
3. まとめ:「生前放棄契約」は後の紛争のもととなるのでやめましょう。
「生前放棄契約」は「相続放棄」としての効力を有しないことを解説しました。
では、後に無効になるからといい、安易に「生前放棄契約」に押印してもいいのでしょうか。答えはNOです。
約束違反(債務不履行)として損害賠償請求を受ける余地は完全には否定できません。
法律論的に言えば、「相続放棄の効力」=「はじめから相続人とならなかった効力」は明確に否定されるとしても、私人間(相続人間)の約束としてはなお有効との考え方も完全に否定できないからです。
また、相続した権利の主張について、権利濫用(民法第1条第3項)や信義則違反(民法第1条第2項)とされる余地も完全には否定はできません。
東京家裁昭和52年9月8日審判では、実際に遺留分の放棄をしながら相続分を主張したことにつき「相手方は、前調停の成立の時点では、被相続人がどのような遺言をしても遺留分を主張しないことを宣言したものであるのに、たまたま遺言がなかつたことから、これを奇貨として法定相続分を主張し、まつたく譲歩する姿勢を示さないものであつて、このことは、たしかに相続権の濫用若しくは信義に反した主張ではないかと疑わしめるに十分であるが、しかし、権利濫用又は信義則違背として相手方の相続権の主張を全面的に否認するにはなお疑問が残り、申立人らの主張を採用することはできないところである。」と権利濫用や信義則違反の検討がされています。生前に相続放棄を約束した事例でも同様に問題になると考えられます。
(基本原則)
民法第1条
第一条 私権は、公共の福祉に適合しなければならない。
2 権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。
3 権利の濫用は、これを許さない。
例えば、放棄を約束する代わりに、他の相続人から一定の金銭給付を受けていた場合には、特に慎重に判断されると考えられます。
よって、「生前放棄契約」を他の相続人や被相続人から持ち掛けられた場合には、「相続放棄」として無効だったとしても、約束しないようにしましょう。

